美味しいコーヒーとは?|京都 小川珈琲 炭焼珈琲(無糖)

友人H「美味しいコーヒーとは?」

コーヒーはビールやタバコと同じく、好んで飲む人にとっては生活を豊かにしてくれるパートナーである一方で、飲まなくとも生命維持に何ら支障がない「嗜好品」であります。そして嗜好品とは文字通り当人が嗜好するもの、つまり、人によって好みが大いに分かれる代物ですから、H氏が私に求める回答も、彼にとってほんの参考程度にしかならない筈です。そういう道理を知ってか知らずか、彼はこういう一筋縄に括れぬ大掴みな問いを、まるで明日の天気を尋ねる温度感で持ち掛けて来る質です。そこへ私が咄嗟に返したのは「美味しくなくしてないコーヒー」という一休さんも真っ青のトンチ回答で、そのあとは特にこのテーマを深堀りするような議論もありませんでしたから、この秋の夜長にひとり考え耽ってみることにしました。

燻した豆を挽いて濾して飲むコーヒーは、そのまま飲むことが既に美味しいとされる飲み物ですから、そこへ香料や保存料を添加する行為は、往々にして蛇足であります。例えるなら、もぎたてのオレンジに注射針を刺して砂糖水を注入するような蛮行ですが、世の飲料メーカーたちはこぞってこれをする。それはなぜか。まずいコーヒーを誤魔化す、1日でも長く保たせる、他社と差別化する等、動機や経緯は各社様々でありましょうが、いずれにせよ彼らはまるで一種のおまじないのように、香料、カゼインナトリウム、乳化剤等、こういったものをコーヒーに溶かします。私の経験上、そのような添加物によって「美味しくなってる」と思えるコーヒーに未だ出逢ったことがありません。むしろコーヒーを「美味しくなくする」という不確実性を孕む小手先の辻褄に他ならないと考えております。ですから私は「美味しくなくしてないコーヒー」を探して飲むわけです。

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しかしながら、世の中には添加物にまみれたコーヒーが随分と幅をきかせている。これは一見すると飲料メーカーの悪徳のように思われますが、真の要因は、メーカーと結託し添加物コーヒーをさも粋で高尚な飲み物であると宣伝するクリエーティブ企業、転がり落ちんばかりに最前面に陳列して在庫ノルマを捌く小売企業、ひいては、彼らの戦略にまんまと踊らされ、嬉々として購買に走る我々消費者にこそあります。この民主主義国家日本にあって、消費者に見向きもされぬ商品は競争に負け、淘汰されていきます。しかし、私も含めた情弱な市民たちが、鰹一本釣り漁法よろしく入れ喰いに釣られ続ける限りにおいて、営利法人たる彼らは専ら「売れるコーヒー」を製造し販売するばかりでありましょう。

とは言え私は、食品添加物が一概に存在を否定すべき悪とは考えておりません。然るべき使い方をすれば魔法のような効果をもたらすそれらは、食品衛生法が施行された1948年から此の方、飽食の時代と揶揄されて久しい現代にいたるまでの我が国の食糧事情において、幾らかの犠牲を払いながらも、その裾野を押し広げるという役割を担ってきた。古今東西、生産から消費にいたる世界のサプライチェーンにおいて、いまや切ろうと思っても断てぬヘロインにも似た存在と言えましょう。あらゆる飲食物が添加物漬けのご時世で、私はせめて人生の伴侶たる嗜好品においては、そのような呪物に頼らないクリーンな逸品で楽しみたいと考えております。

さて、添加物を使わずにコーヒーをいかに秀でて美味しいものにするか。コーヒー豆の種類、ブレンドの配合、水の質、製造工程の工夫など、その方法は色々とありましょうが、今回紹介する小川珈琲の“炭焼珈琲”にて採用されたのは「炭焼焙煎」という製法。詳しいことは公式サイトを参照されたいが、とにかく口にふくめば怒涛のような香ばしさが吹き抜け、一方で味わいは透明感のある爽やかな仕上がり。一切の雑味がなく、苦すぎず、濃厚で、芳醇。いわば「燻製コーヒー」の心地良い風味を、いかに我々消費者へそのまま運ぶかという事にまでしっかりと拘り、考え抜かれたパックコーヒーであると見えます。安易に香料に頼り、安定剤で有耶無耶にした軟派なコーヒーには到達し得ない、芯の通った美味しさを有している。私はこのように品のあるコーヒーをこそ、私の大切なリラックスタイムのズッ友にしたいと思いました。

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